小さな村の定食屋

Georgeおじさんがお話書いたり、グルメリポしたり、好きなことする場所

机上の空論「郷愁」

~譲の話~

 

初めて行く土地には親しみなんてものはなく、ある種の高揚感だけがあるものだ。ただ、初めて見た景色、初めて聴く曲、そんなものにノスタルジーを感じることが、人間一度や二度はあるはずだ。ノスタルジー、郷愁なんて訳すのだが、故郷でもないのにふるさと≪郷≫の雰囲気を感じてふと物思いに耽る。経験したこともなく、見聞きしただけの話かもしれないが、それを自分の思い出のように感じて、ノスタルジーに至るのかもしれない。いつ経験したわけでも、いつ刷り込まれたのかもわからない、心のどこにあるかもわからない故郷に対するこの感覚が日本人特有なのか、外国人でも感じる感情なのかは知る由もない。この故郷の話を書いて、渋谷や新宿の大都会を思い浮かべる人はまずいないと思う。都心で生まれ育った自分であっても、いわゆる田舎を思い出すだろう。ここで思い浮かべる田舎はまずCountry Roadで歌われるWest Virginiaのようなトウモロコシ畑の広がる広大な場所ではないと思われる、実際に海外で生まれ育った人は違うかもしれないが。けれども、トウモロコシ畑でなくても、トウモロコシを思い浮かべた人は少なからずいるのではないだろうか。トウモロコシをかじりながら、風鈴と蝉が鳴き、そんな夏の景色に郷愁を感じる人もいるだろう。ではそのトウモロコシをかじっているのは山奥の家だろうか、はたまた海辺で海を眺めながらだろうか。

入り江の港町や、飛行機も飛ばない離島に住んでいたら、と思う時がふとある。埠頭の先まで友達と歩いて行って、ウミネコの鳴き声を聞きながら海を眺めている。得てして内陸地や大きな市街地に行くのには時間がかかる土地で、隔絶された、と言うと今現在港町に住む人に怒られるだろうが、多くのことがその町の内部で行われるのだろう。全てではないが閉鎖された空間、外に出ることを考えず、その町の中で暮らしている少年少女になりたい、むしろ、そうであったと考えるときが、なにかの引き金によって訪れるのだ。そんな海と隣り合わせの世界で過ごすことは、彼らにどのような希望や未来を描かせるのだろうか。大都会に対する羨望を持たず、その土地から出るという選択肢を強く持たない彼らになりたいのだ。しかしこれは自分自身の彼らに対する羨望であるが、その土地に住んでいた記憶・郷愁とは等しくない。その土地への憧れは懐かしい気持ちを引き起こせない。港町や離島を訪れて、また、外から眺めて得られるこの郷愁は自分の中にどう根付いたのだろう。