小さな村の定食屋

Georgeおじさんがお話書いたり、グルメリポしたり、好きなことする場所

研修終わったし色々振り返ろう

最後の方はメンタルが終わっていて、良くない印象だったろうなぁっていう新人研修。

ちょっとした経過と感想を、言い訳代わりに残しておきたい。

しばらく会えなくなる人ほど読んで貰えるとありがたい。高校・大学の友人にも見て貰えるとありがたい。改めて人となりがわかると思う。

 

新しいコミュニティでの印象作り

過去の友人がいないコミュニティに踏み込んだからこそ、新しく印象を植え付けることが可能だと考えていた。高校の後輩に「先輩はその自己肯定感の低さなんとかした方がいいですよ」と入社前に言われ、さすがにこれだけは隠し通そうと考えてブランディングしていた。

基本的に知らない人と会話するのが苦手な上に、仲良くなり出すと饒舌になるという面倒くさい特性がある。最初はにこやかに穏やかに生きて良い印象を持たれるのは一つ大事なことかもしれない、と思って迎合したスタイルでしばらく過ごしていた。ニコニコしてた。

素が出れば出るほど、中身の偏屈さや卑屈さが出かねないので、素を隠すようなスタイルではあった。でもそれって面白みはないし窮屈ではある。俺は人から見て面白いと思われるのは思考の部分なので(多分)、それを表現できない限り、つまりは素直に話せない限りはただのでかいメガネだった。

 

「特殊な仕事」の人

ここで言っていいことかはわからないが、入社したのは新聞社で、しかも仕事はエンジニアだ。それなのに記者と一緒に仕事をする手前、研修はそっちと一緒に受けることになった。これが難しかった。

前述したが知らない人と会話するのが苦手なのだ。ましてや知らない人に電話をかけるようなことは多大なストレスでしかない。

他の人からすれば、ちゃんと仕事が出来る、電話をかけて他社から情報を聞き出せる人なのかもしれない。だが、与えられた仕事を遂行しなければならない、というような真面目さや体育会的思考回路があるのでやらざるを得なかった、というのが正直なところだった。

電話したり、外部に取材したり、そういうことが頻繁になってからのストレスの溜まりっぷりはなかなかヒドく、それが今の擦れっぷりに繋がっているところはある、申し訳ない。

一方で、仕事柄社内の多くの人、特に様々な分野の記者と関わる機会がある。そのために人脈を作っておけ、というのが研修に送り込まれた意図であった。これは実際に必要なことだったとは思う。

 

バレる本性

筋のことを言うように心がけているし、一貫性のある人間だとは思う。それが、こいつは嘘をつかないし心からそう言っている、と認識されるポイントになっている気がする。大学の友人でもGeorgeはマジでこういうこと思ってる、と言って貰えたときには、仲良い友人だな、と感じた。頑固だ、と評価される要因でもあるのだが。

その頑固さや偏屈さのせいで、穏やかにニコニコしてたキャラが崩れることになる。ビジネス講師に噛みついたり、飲み会で他の同期の文章にケチをつけたり、思ってることを素直に言い出すようになると、とにかく危ない奴の印象が強くなってしまった。

たまたまではあるが、研修中に書いた文章が良かったおかげで全体で発表する機会があった。個人的にはこのブログの文の延長線上ではあるので、独りよがりなところはあると思っていただけに、評価されるのとはまた違うと思っていたのだが。これは謙遜する自分を見て欲しくて書いたのではなく、ここで俺が評価されてしまうのは周りの問題では、って話をしたくて、それをしたのが上記の「飲み会で他の動機の文章にケチつけた」の部分だったりする。

 

文章はアウトプットしてこそ

実際文章を書くのは昔からよくやっていた。中学ではアメブロを書いていてたまに物語を書いていた。高校は文化祭の演劇と映画で脚本を書いた。おかげさまで映画は最優秀賞を獲った。この時のメンバーは一生大事にする。

大学ではブログこそちらほら書いていたものの、一番アウトプットを求められたのは研究室生活だと思う。毎週のミーティング、半期に一回の進捗報告、色々なバリエーションでアウトプットを試してきた。スライドや資料はパターンを変えて多く作れたのも、たまたま先輩や同期、後輩のデザインスキルがとても高く、刺激されて参考になった部分がある。我が研究室の一番良かったところはデザインスキルの高さだったのでは、と感じた時もある。

就活でもいろいろ文章を書く経験はする羽目になったが、一旦ここでは置いておく。

そういうわけで、いろいろなところで文章を書く機会があり、機会をつくり、アウトプットの経験が積まれてきた。

新聞社の記者、ともなると学生新聞を書いていたり、メディアでのバイトで出稿していたりもするので文章を書くのが上手な奴らが集まっている舞台だと期待していた。その一方でこちらが文章を発表する機会があった。つまりは他者の文章能力の方が問題なんじゃないか、と感じる部分がある。

編集ソフトの機能のおかげで、全体研修の間は他人の文章をよく観察できた。当然指導が入るので綺麗に文章が研ぎ澄まされていく人が多かった。その一方で「それはダメって言われてなかった?」ということを平気で何度もやる人は当然いる。チャラチャラしてる奴であっても、冗談通じなさそうな真面目な見た目の人であってもやっている。一度目の失敗は誰でも当然するだろうが、二度目三度目は話が違う。「他人の文章にケチをつける」というのはそっちの方が問題だと思って言ったはず。

ただ、記者という生き物は文章を書くこともそうだが外部の他者と話をする能力も大いに求められる。それはこちらにはない。

文章が上手くなるのはつまりはアウトプット量、という話をここでしてきたので、配属され働き出したら嫌でも上手くなっていくだろう。早く手の届かない所に行ってくれればこちらも楽になるのだ。記者になんかなりたくない。

 

存在意義と存在証明

発表させられた文章で書いたのは、仕事がAIに取って代わられるなら、自分自身の存在価値を高めていくしかない、という話だった。楽観的に生きたくてもそうなれないのは、常に存在価値を問い続けるような姿勢にあるのだと思う。

なんせ自己肯定感が低い。多分その感覚は変わらないし、22年ストレートに生きてここで同期になった人にはなかなか理解しがたい感覚があるかもしれない。

ただ、自己肯定感が低く、卑屈で偏屈な人間を誰が好きになろうか。

根本の部分は変わらなくても、上辺だけでもまずはねじ曲げられる。そうやってブランディングして、外面を良く見せられるようになったのは、高校大学と良い環境に恵まれたのもある。高校には良い友人がいた、嘘をつくよりも本当の事を語る方が面白いと実感させられた。

精神的に悪い面もたくさんあるが、良い面もさすがに身につけた。前述したが、嘘をつかない、と思われるのは凄く大きなことだと考えている。インスタのストーリーでも本当に楽しく酒を飲んでいる、飯を食べている、と見られるのは、その精神性が為してくれる部分だ。社会性フィルターこそあれど本音で常に話せる、それは人を寄せ付けなる要素たり得るが、圧倒的な信頼感を得られるメリットもある。

「特殊な仕事」をする存在であること、圧倒的な信頼感があること、この2つは自分の存在価値に繋がる。それを示すのがこの研修期間でやるべきことであり、成し遂げた事だと思う。十分な存在証明をした。そのためにストーリーは多少頑張って更新してた、普段ツイッタラーだし。

多分俺のことを良く思わない人は居る。2ヶ月で話したことない同期も居る。良く思われないところもあるが、評価してくれる人も居る。俺と知り合いであること、仲良くなっておくこと、利用価値があると判断して貰うことは、君たちにとっても、俺にとっても利益であってほしい。

さいごに

研修の最後、1分間のスピーチを各人がさせられた。

名前だけでも覚えて帰ってください、と最後のスピーチであえて言った。

俺のことを覚えておいて、利用してくれれば、必ず価値に繋げてみせる。

仲良くしような。

 

みんな話が本当に面白くないとか、腹を割って話すような関係性の人は結局できなかったとか、趣味とインプットの話とか、いろいろ書きたかったところはあるけどアルコールも切れたのでここらへんで打ち止めにする。